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山口素弘が語る横浜フリューゲルス

 

――横浜Fが消滅すると聞いた時、選手はどのような反応を示したのでしょうか。

山口 とにかく「うそだろ?」って感じでした。

――山口さんは、どのタイミングでそのことを知ったのですか?

山口 新聞に記事が出る前の日の夜に聞きました。聞いたというか、アツヒロ(三浦淳宏)やマネージャーから電話がかかってきて、「そうなの?」って逆に聞かれたんです。「どうなの? 本当なの?」と言われたんで、「そんなのあるわけないだろ」って話をしたんですが……。朝、起きてスポーツ新聞を見たら、1面に出ていてびっくりした記憶があります。そうこうしているうちに集合がかかって、よく分からない状態でクラブハウスに行ったら、マスコミ関係者の方々がたくさん来ていて。朝のワイドショーでも取り上げられていましたし、最初は「大変なことになっているな」という程度の感覚しかなかったです。

――そこから情報を整理していった感じですか?

山口 情報も整理できなかったです。その時は、当時の社長が事実を読み上げて説明して、文書を配られただけでしたから。選手同士のやり取りもできず、社長は一方的に「こうなったから」と言って出て行ってしまいましたし。

――残された選手の反応はいかがでしたか?

山口 「これからどうなるの?」という感じです。先は全く見えなかったですし、とりあえず午後の練習をどうしようかと。当時の監督だったゲルト(エンゲルス)が「いったん解散しよう。気持ちの整理をつけて、午後、集まれる人は集まってくれ」と言って解散しました。

――午後の練習には、みんな集まったんですか?

山口 そうですね。集まりました。練習も一応やりましたね。すごく暗い雰囲気でしたけど。
 
 選手たちの知らないところで話が進み、突如として発表されたクラブ消滅。心の準備ができていない現場の人間は、ただ戸惑うしかなかった。それでも、彼らはプロとしてできることをやり続けた。とても練習ができるような心理状態ではなかったが、発表があった日の午後に行われたトレーニングにも全員が参加したという。そして山口氏を筆頭に、選手たちは自ら消滅回避への道を模索していく。
 
――チーム存続に向けて、様々な行動を取られたと思います。

山口 何とかならないかと考えて、いろいろ動きました。個人でできることはないのか、チームとして何ができるのか。ミーティングもたくさんしました。

――実際に動いてみて、どんな印象を受けましたか?

山口 「存続の可能性がある」っていう情報が来たり、「やっぱりダメだ」っていう話が届いたり、一日ごとに状況が変わりました。その間に会社側に説明を求めて、全日空の関係者が来たんですが、その方は何も分かっていない感じでした。

――Jリーグは合併を承認していたのでしょうか。

山口 それが当時は分からなかったので、何人かで川淵三郎チェアマン(当時)のところに話を聞きに行きました。

――川淵さんは何と?

山口 川淵さんのところに話が行った時には、すべて決まっていたそうです。全日空と日産の上層部同士が決めてしまったということでした。だから、何ともしようがなかった。その前にエスパルスも危なかった(清水は1997年に運営会社の累積赤字によりクラブ消滅の危機に立たされた)けど、それとはわけが違うということでした。

――選手はサポーターとともに、存続に向けた署名活動を行いました。

山口 練習後に、横浜駅西口のあたりでやりました。それから、他企業にクラブの運営権を譲渡して存続できないかと考えて、企業関係者の方と話し合うこともありました。

――様々な道を模索した結果、やはり横浜Mとの合併は不可避でした。

山口 「もう決まっているから」みたいな感じでした。いろいろ動いていた頃は正式に調印されていなかったので、調印式を一つの目安にして、それが終わるまでは何とかなるだろうと考えて、選手たちも手を打とうとしていました。それでも結果は変わりませんでした。

 

【インタビュー】あれから18年。山口素弘が語る横浜フリューゲルスと国立競技場の思い出とは(前編) (SOCCER KING) - Yahoo!ニュース

 

このフリューゲルスから遠藤保仁や楢崎など多くの選手が移籍していったわけですが

もし遠藤がマリノスにそのまま移動する形で移籍していたら、

中村俊輔とどんなプレイをしていたかなあと思います。